どうして、勉強になると時間を目的にするのでしょう。
散歩をしているときにふと考えたりするのですが、未だに答えが分かっていません。それでも、考えていることを少しだけここに書きたいと思います。
私は多くの考え方を子供から学べると感じています。「子供は学習能力が高い」と言われたらなんとなく納得してしまう気がしますが、どうして学習能力が高いのか考えるまで立ち止まることは少ないように思います。
私の好きな詩集に書かれている「髪にとまった花びらを子供はそっと払い落とす」という言葉は、これについての大きなヒントになっているように思います。次から次へと、新しい花に手を伸ばすその行動が学習なのかもしれません。
とあるクイズプレイヤーの講演会を見ていても同じようなことを感じたことがあります。知ることは楽しく、楽しいから知ろうとするループが人の知的好奇心として存在していて、そのループに加入する敷居を下げるのが私たちのやりたいこととして話されていました。
結局、人はやりたくないことに対して時間で制約を作り、時間的制約を存在させることによって効率に頼らざるを得ない状況を生み出してしまっている気がします。「いろいろなことを知りたいから効率よく勉強したい」ではなく、「30分で終わりたいから効率をよくしなければならない」という流れです。効率をよくするのは非効率な物事に対して行うべきで、やりたくないことに対して行うことではないかもしれません。
これらの話を纏めると、物事は興味が先で目的が後の形が綺麗だと考えています。「勉強やりたくないな、でも今日も30分やらないといけないな」と思いながら勉強するくらいなら、興味の向いているものを心のままに30分やった方がいいと私は思っています。なかなか思うように物事が続かないときこそ、今この瞬間に興味を持っていることをやってみるのはどうでしょうか。知ることは楽しい、楽しいは嬉しいの感情を身につけるまで、勉強は逃げずに待ってくれているはずです。知識は疲弊せず、消化されない。これが勉強の面白さだと思っています。
学生の頃の私はあまり勉強が好きではなく、自分の楽しめるものばかりしていたように思います。そんな生活を繰り返していたはずが、知ることと楽しむことのループの存在を理解し、いつの間にか何を目指すわけでも何に追われるわけでもなく勉強をするようになっていました。目的の存在しない勉強は、知識の不思議さに魅了され、気になったことをただ純粋に知りたくなるからこそ、ループに引き込んでくれる力を抱えています。
私の勉強法は、存在しない目的の先で、知ることは楽しい、楽しいは嬉しいです。
興味の揺らぎに従って、行く先の分からない風に流されてみる。テストで100点を取れなくても、本を読む前と後で何か変わっていたらそれでいいのかもしれません。